希望を抱き続けて
        長岡中央綜合病院 内科部長 岩島 明

 あの時、私は、救急外来の日直業務を終え、病棟で入院患者さんの指示を出していました。突然の揺れに自分の身体を支えることも出来ず、壁につかまって何とか立っていました。揺れが収まっても、大震災という認識はなくて、いやあ長い揺れだったなあ。患者さんはみんな無事かな。といった程度の感じでした。
 これは、まずいと思ったのは、廊下の防火扉がみんな閉まっていたのを見た時と医局の本棚がパタパタと倒れて、床がカルテだらけになっているのを見た時でした。

 医事課を本部にして、各病棟をまわって、まだ残っている日勤者はそのままスタンバイして、患者さんの安否を確認するように指示したあとで、救急外来へ行くとそろそろ外傷の患者さんが押しよせ始めていました。

土曜日夕方(5時57分)に地震が起きたのは、幸運であったと思います。

日当直の医師が4人院内にいた。
 もしも、もっと遅い時間であったら2人しかいなかった。救急当番日でなかったら一人しかいなかったかもしれない。

日勤者が残っていた。
 完全に夜勤の体制になっていたら、看護師は1/3しかいなかった。

外来患者がいなかった。
 もし平日でしかも日勤帯であったら、数多くの外来患者がいた。入院患者とつめかける救急患者の他に一般の外来患者に対応しなければならなかった。

 当初トリアージを行おうとしましたが、幸いにも長岡では今回の震災では建物の崩壊や火災はほとんど起こらず、トリアージが必要な重症患者はおられませんでした。一時は救急外来前に救急車が6台も並んだことがありました。整形外科中心に外科系の医師や研修医の皆さんは大車輪の活躍でした。内科医である私は、いかにスムーズに診療ができる体制を作るかということに腐心しておりました。
 病棟からは、余震のたびに揺れる状態に患者さんが耐えきれずに避難したいとの要請が相継ぎました。最終的には、副院長が来院してから一階のロビーに動ける患者さんは避難していただきました。避難が正解だったかどうかは別として、あの時点では患者さん達の動揺を抑えるためにはやむを得なかったと思います。また、避難の際のスタッフのがんばりとパニックにならずに整然と避難した患者さん達の行動には感心いたしました。

振り返って足りなかった点を考えると

対策マニュアルがなかった。
 細かいことまで現場での判断・意思決定・創意工夫が必要であった。

実際に即した避難訓練が行われていなかった。
 院長・副院長がいない場合の指揮命令系統を決めておく必要がある。

患者さんの避難の取り決めがなかった。
 どの程度の地震ならば避難するのか、どこに避難するのが安全なのか。動けない患者さんはどうするのか。避難した患者さんについて行くのは。また、残った患者さんについているのは。

事務系の職員が足りなかった。
 患者さんの案内やカルテの処理、患者さんの住所・連絡先の確認、その後の受診の仕方をお知らせする、など事務系の職員の仕事はたくさんあった。そして、そういったことが、システムに不可欠であった。

酸素が足りない
 ロビーや救急室の前の廊下、緊急の病床になったリハビリ室などに酸素の配管がなかった。新病院では大丈夫なのだろうか。

 医局の医師達は、外科系内科系を問わずに徐々に病院に集まり、救急外来を中心に診療を行いました。当初集まった皆さんは10月24日の1時ころまで残っていてくれました。その後は、数人ずつに分かれて三時間交代で勤務し、翌24日の昼も同様のシフトで勤務してくれました。昼も夜もないような状態は、数日続きましたが、皆さんよく頑張ってくれました。なかには、九州の学会から急遽戻ってこられた医師もおられました。看護師にも、自宅に帰れずに病院や近所に泊まって勤務した人達がおりました。

感謝してもしきれませんが

病院に駆けつけてくれた皆さん
 日勤が終わっても深夜まで残ってくれた皆さん。家庭を顧みずに駆けつけてくれた皆さん。飛行機にとびのって帰ってきてくれた皆さん。感謝します。

特に栄養科職員の皆さん
 炊き出しおいしゅうございました。本当においしかったです。

院外から様々な支援をしてくださった皆さん
 人の情けが身にしみました。感謝します。

 私は最初からあの場に立ち会っていた者として、当院の職員は急に訪れたあの状況に対し、立派に立ち向かい困難を克服して十分に成果を上げたと思います。私は、長岡中央綜合病院で勤務する皆さんを誇りに思います。

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