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希望を抱き続けて
刈羽郡総合病院(運転手) 矢沢 潔

 地震が大きかったので翌24日の朝、心配になり刈羽郡病院にいってみると自主登院された職員の人たちが大勢いました。事務室の見まわりをしてから、棚の整理やカーテンなどを直してこれから帰宅しようとしていたら、魚沼病院に行ってくれと言われました。病院のワンボックス車に小林病院長、内科の三木医師と看護師3名の計6名で向かいました。何か食料を持っていきたいのですが、柏崎市内のコンビニやスーパーには何も置いてないので持っていけない、こちらも地震の被害が深刻なのかと思いました。それでも水が必要だと言われていたのでそれだけは用意できました。

 出発時間は11時くらいだと思いますがそれから十二時半ぐらいには到着したのではないかと、よく覚えてなくて解らないのですが、後で刈羽郡病院の人から連絡があったし、合同対策本部にも知らせを入れたと聞きました。小千谷への乗り入れのための情報はラジオから採って道を探し、出発前に警察に問い合わせをしたかどうかあまり覚えていませんし、思い出せません。まさに手探り何の確証も無く行き当たりバッタリで進んだ気がします。

 柿崎からは入れない、小国の武石トンネル、北条からの塚山に抜ける道路は通行止めでした。それで国道252号→国道291号で北条に抜け、地図に無いような林道から刈羽村の千本へ、国道八号に出て大積トンネル→越路町→小千谷市内に入ったように思います。途中、警察官も間に合わないのか、地元の自衛団の様な人たちの検問に会い、私が緊急車両の扱いにしてくれと直接お願いして、3ヵ所くらいだったかと思いますが通してもらいました。

 通れた道路は所々地割れやマンホールが浮き上がっていました。車から下を見ると地面が隆起したり、陥没したりと上を見ると電柱が根っこから倒れかけ、今にも落ちてきそうな感じがして鳥肌が立ちました。車のタイヤが落ちたら立ち往生する、職員の安全を保たなければと思い、胸中穏やかではありませんでした。あらゆる角度からの(道路)の状況を注意しながら進むのは緊張し、疲れるものでした。口から出た言葉は助手席にいる病院長に地面の状況だけは注意して見てくれと夢中でお願いした事ぐらいです。魚沼病院に到着したときは県内外を問わず、どの機関、施設の救援部隊は見当たらず、私たちが一番最初だったと思いました。

 小千谷市内に入ってみると状況は言葉にならない、ただ酷いとしか言いようが無かったように記憶しています。また初めての経験として上越市の給水車に二度並び病院に水を運びました。

 現在、冷静にその時のことを思い返すと、極度の緊張とストレスなどでどのような状況であったのか、やはり細かいところまでは覚えて無いのです。でも今更ながら魚沼病院までよく辿り着けたものだとしみじみと感じています。
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