希望を抱き続けて
 突然の<中越地震>で、ライフラインが止まった。緊急事態で、食事に関わることは栄養科がすべて行う事となる。食事を配膳するのに、病棟への階段を上り、用意した食事を1人1人に手渡しで配って歩く。

 夕方になると病棟の中に人が増えてくる。付き添いの人、見舞いの人、誰とはなしに部屋にいるすべての人に、おにぎり・飲み物・おかず等、用意した食事を配っていく。

 地震直後は、日に日に患者数が増えてくる中、病室へやって来る人達も増えてくる。20〜30人分位余計に作って、おかずは、盛り過ぎないように配って歩く。
 余震がまだ続く中、病院にいて外に出ることができなくとも、御飯時になると食事をもらえると安心感を持った方々からは、感謝の言葉もいただいた。誰とはなしに、皆で配って歩いて急場が過ぎていった。
魚沼病院 久我千代子(管理栄養士)
希望を抱き続けて
 遅番で病院にいました。栄養科の事務所にいたのですが、いきなり「ドーン」という音ともに棚から物が落ちてきました。同じ遅番の川上さんが「高橋さん地震だ、外へ逃げろ」と叫び、2人とも外へ出ました。院内は真っ暗でめちゃくちゃな状態です。私は一旦、自宅(小千谷市内)に帰りましたが、家は倒壊の一歩手前といった状態でした。家族はさいわい無事で、祖父母を近くの避難所に避難させました。それからまた病院に戻り、後かたづけやこれからの事などについて仲間と話し合い、明朝の食事は備蓄品のお粥や缶詰で対応することになりました。病院には、24日午前4時頃までいました。

 栄養科にとって、電気、ガス、水道が使えない状態は、もっとも大変なことでその後も苦労しました。幸運にもボイラーが運転されたことから、1台ある蒸気釜で、水やお粥、みそ汁の缶詰などを温めることができました。
(機関紙「厚生連労組」より)
魚沼病院 高橋光代(調理師)
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