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希望を抱き続けて
脳神経外科医長 渡辺秀明
 
 10月25日朝4時半、当院からは7名、真野みずほ病院から2名の9名のチームで出発した。新潟へ到着した時点の情報では小千谷までどの道が通れるかはっきりとわからないため行きながら道を探すこと、現地での食料、水は前もって自分たちで用意するようにとのことであった。

 その後高速道路が使えるようだとの連絡が本部より入り、高速道路を進んでいった。小千谷に近くなると道路自体が陥没、隆起してとても危ない状態であった。また所々に無人の車が止まっており、地震のため車を乗り捨てていったものと思われた。車窓からは崩れた家や倒れた電柱なども見えた。小千谷ICで高速道路を降り、市内へ入っていくと道路はあちこちで通行止めになっており、通れる道路もでこぼこでまっすぐに走れない状態であった。途中の店は軒並み閉店していたが、開いていたガソリンスタンドには50台くらいの車が長蛇の列を作っていた。ガソリンは一台10リットルまでしか売ってくれないとのことであったがそこに多くの人が殺到していた。

 病院につくと廊下に布団を敷いて寝いている人がいたり、職員が忙しそうに動き回っていたり、騒然としていた。建物自体に深刻な被害は無かったが、棚や物品、機械などの多くが倒壊していた。電気、ガス、水道とも来ていない状態だった。私は救急外来での診療にあたったが、必要な物は最低限そろっておりそれほど困ることはなかった。ただカルテが作れないため一枚の紙で上の方に住所、氏名、電話を本人や家族に書いてもらい、その下に行った治療などを書いて代わりとした。簡単な薬の処方も可能であった。本震から二日経っていたこともあり、比較的軽症の方が多かった。レントゲン写真やCTなどの機械が使えず、重症者は長岡市内の病院へ転送を行った。病院の前には救急車が何台も並び、絶えず救急車のサイレンが鳴っているような感じであった。こんなに救急車があったかと思って見てみると東京都や長野市消防局など県外の消防からの救援が数多くみられた。病院には食事時間になるとお弁当やおにぎりが届き、ペットボトルの飲料水もあり、水や食料に関しての心配はなかった。ただ、食事をゆっくりする場所が無く、外で食べたり、廊下で食べたりしている人が多かった。一日目の仕事が終わり、我々は看護師休憩室に案内された。広い畳の部屋で、懐中電灯の明かりの中、買ってきたおにぎりやパンなどをみんなで食べた。自家発電を回してくれたため、テレビを見ることができた。水は節水されており限られたトイレのみ水が流れた。夜間6、7回ほど救急外来に呼ばれたが、布団もありそれなりに休むことはできた。翌朝は持ってきたカセットコンロを使ってお湯をわかし、カップラーメンを作って食べた。翌日も救急外来での診察を行った。魚沼病院の先生方の話では、みんな地震以来帰っていないので家がどうなっているのか分からない状態であるとのことであった。また昨晩は救援に来てもらったおかげではじめてゆっくり休めたと感謝され、我々の手伝いが少しでも役立っていたと思いうれしかった。滞在していた間は震度5を超えるような大きな余震はなかったが、それでも時々大きく揺れることはあった。ただ地元の人はもう慣れているようで「また揺れたねー」という感じであった。

 今回震災直後の現地へ行ってみて考えさせられたのは当たり前と思っていたことが当たり前でなくなった時、人はどのように行動するか、自分はどのように行動できるかということである。神戸から救援に来ていた救急隊の人の話では、今回は関西大震災の教訓が生きていてあの時ほど大きな混乱がないようだとのことであった。通常時にいかに準備をし、非常時に過去の経験を生かせるかも重要となってくる。今回魚沼病院では建物被害が少なかったこともあり比較的早く体制を立て直し、診療にあたることができていた。また職員も自分の所だけでなく積極的に他部署を手伝っている姿が見られた。日ごろから横の連携が良いと、この様な時協力体制がとりやすいと思われた。非常時いかに冷静に行動できるか、少ない情報の中でも広い視野で物が見えるかが、危機管理の上で最も重要なことであると改めて思った。

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