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刈羽郡総合病院(診療放射線技師)新潟県厚生連労組副執行委員長 白井康博 |
10月23日夕方すっかり日が落ちた頃、地震は起きた。震災直後の暗闇中、想像を絶する環境で病院職員が、患者・地域住民のいのちの安全に大変な努力をしてきたことに記録集を編集する中で改めて驚き、その活動に強く敬意を表したい気持ちになりました。この災害を通して厚生連全職員が、協同組合精神・相互扶助の精神を以前にも増して意識する様になったのではとも感じています。また地域全体が被災した場合、病院は学校・公民館などの公共施設と同じく地域の人たちが大勢集まってくるところになりました。地域のニーズとして災害避難拠点施設の性格を持つことを再認識し、患者さんとして来られた人ばかりでなく、地域へどの様な支援や援助、期待に応えるべく行動すればよいのかを日頃より考えることが必要であると感じました。
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一.大震災の被災は病院施設のみではなく、地域全てを覆い尽し、多くの職員の大切な家族、家に大きな被害をもたらしました。そして避難所や車の中で生活し、そこから出勤している職員が多数いました。医療に従事する者の心得は、病んでいる人への奉仕の心と献身的、慈愛の精神を持って社会に貢献する事となっています。非難されるかも知れませんが、そこまで病院職員に医療従事者に徹しろというのは酷であろうと思います。ところが実際にその様に行動した人が数多くいました。
二.大震災直後より、医師、看護師や自主登院された多くの職員が、患者さんを安全な場所へ移動。救急外来に運ばれてくる患者さんの治療や手当に協力し尽力しました。
それぞれの病院での特徴的な行動をごく一部ですが挙げてみると、
魚沼病院
全てのライフラインが停止した中での食事の準備・確保の努力した栄養科の職員。また市や行政からも協力が得られない中、階段を何回も往復し燃料確保のために尽くしたボイラー技士。道路網の被害が大きかった魚沼地域の家や避難所を必死に訪問したケアマネージャー。
長岡中央綜合病院
大災害の想像を絶する状況で、勇気を振り絞りリーダーとして陣頭指揮に立ち上がった助産師。避難してくる地域の人たちに食事の提供をし続けた栄養科の職員。また全村避難の山古志村の患者さんを訪問したリハビリのチーム。
栃尾郷病院
山の奥の家や避難所へ医療チームを編成しての往診。
などなど、無数の職員の隠れたエピソード、行動や努力がありました。
また中条第二病院では、地元の消防団の助けや設備の援助、OBやボランティアの方々に駆けつけいただいたこと、栃尾郷病院でもボランティアが駆けつけ、地域からの支援で、患者さんの安全な移動や施設の機能確保ができました。厚生連が掲げる地域医療、地域と病院の結びつきの強さがこんなところで繋がっているのかなと感じているところです。
三.被災当日より約二週間あまり、被災した五病院の業務支援へと多くの仲間が応援に駆けつけ、備蓄してある食料・食材を持ち込んだり、調達したり、厚生連全体で団結してがんばり通したと言えます。被災病院への協力依頼は延べ526名、自主的な支援活動を入れるとその数倍となり積極的な参加が行われました。
三条病院が被災病院からの透析患者さんの受け入れのため、休日に地元の患者さんの透析を行い、翌日の備えをした管理者・責任者の英断があったこと。看護協会の要請により厚生連病院以外の他施設や地域へ看護師が、立川病院の図書室蔵書の整理のため、長岡市へ糸魚川病院の事務員が、それぞれ支援に向かった。今回の活動を通して、厚生連は災害地域に支援する「義務」にも似た気持ちが元々あり、被災・支援病院に関わりなく全体の問題として意識していることを感じました。
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同年「7・13新潟水害」の経験より、震災翌日に労使合同災害対策本部を立ち上げ、各病院の被災状況の把握と、医療確保のため厚生連内での連携と協力依頼、具体的には中条第二病院、余震で被害の大きかった栃尾郷病院の安全が確保できるまでの間、患者さんの移送の指示。魚沼病院などへの業務支援のための人的支援のお願いをしました。今回のような大震災が起こらないことを祈りながら、阪神・淡路大震災の教訓から立ち上げた災害時の無線委員会、この無線が大活躍しました。本当に感謝しました。
新潟県厚生連は、農村、中山間地を中心に県内十五カ所に病院を持っており、大震災はこの地域の医療と厚生連の危機をもたらしました。労働組合の取り組みは、最も施設の被害の大きかった中条第二病院の危機に対し「存続」を会に要求し、雇用調整・人員整理に反対しました。話し合いの結果、労使とも再建に最大限努力することで一致。厚生連全体がこの震災で一人の失業者も出さない決意で協力し、転勤により職員の受け入れをして支援することとしました。また日本医労連や全厚労を通しての厚労省、農水省、県、JA、十日町市など国や行政への「災害復興費補助率の引き上げ」の支援要請や国会議員請願などを早くから取り組み、私たちの「地域医療の確保」、「協同組合精神・相互扶助の精神」に根ざした一貫した主張、その正当性を真摯に受け止めて頂いた結果、公立病院と同じく災害復興費補助率が二分の一から三分の二(精神は三分の一から三分の二)に引き上げられることとなりました。これから地震など大きな災害で施設が被災した場合、全国の厚生連及び公的病院は中越大震災の摘要が基準となります。大震災で大きな被害を受けましたが、私たちの活動が基準の見直しをさせた、大きな成果へ導かせたと自負しています。
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一.情報の取り扱い
責任の所在(リーダーシップ)。病院個々の判断が先行した場合もあったので、厚生連のスケールメリットを最大限生かし、連携を取るための情報の集中とその的確に活用させる方法。
二.防災訓練、マニュアルの策定
防災で想定されているものが、火災についてであり不備が目立った。たとえば緊急放送や知らせるべき情報が院内放送で流れないなど、あらゆる危機管理マニュアルの策定が必要。
三.厚生連が地域に対して、あるいは被災者への援助のあり方
医師の往診、避難所など外への派遣。地域が大きな被災を受けた場合、病院に留ま
らず積極的に地域に貢献する(地域医療の実践)
などが挙げられます。私たちは今後これを教訓として整理し、参考や役立てられるものとして新潟から情報を発信したいと考えています。
総括の最後に、あの予測もしない状況下で完全な対応ではなかったと言われるかも知れませんが、被災・支援病院双方、厚生連の全職員が本当にがんばったのだと評価したいと思います。また大震災の経験を防災に生かすこと、復興を果たすことの決意を新たにしています。
これまでの間、全国のJA、全厚連、医労連、全厚労他から医療支援、たくさんの支援物資、義援金さらに励ましの言葉などを頂きました。紙面をお借りして、皆様のご厚情にたいし深く感謝申し上げます。ご支援、誠にありがとうございました。
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