希望を抱き続けて
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池 正人(ボイラー技士)
 私は魚沼病院への災害復興支援の第三班として支援活動に参加してまいりました。

 活動としては設備関係の復旧及び整備にあたりました。厚いコンクリート基礎部分の破壊や数十トンもの重さの受水槽を移動させてしまう様な地震被災の経験が無くメディアからの情報しか知らない自分にとって、実際の現場の大変さは心が痛みました。

 二日間という短い期間の支援運動でしたが、未だ余震の続く現地の皆様にとって一日も早く復興出来ます様、心よりお祈り致します
希望を抱き続けて
三好孝史(臨床検査技師)
 新潟県中越地震の被害に遭われた皆様にお見舞申し上げます。

 今回、10月25日出発の第一陣に引き続き、現場の医療応援活動に魚沼病院へ行って来ました。

 小千谷までの道中、高速道路は至る所で亀裂が入りフェンスは脱落し、報道では伝えきれない被害状況を目の当たりにし、改めて自然災害の凄さ・怖さを痛感しました。

 検査室内の被害も、機器の脱落等もさることながら、検査機器のライフラインである水の供給ができず、分析器を正常な状態に維持することも難しい環境でした。

 そんな状況下でも黙々と仕事をされている職員の方々の姿がとても印象的でした。

 今現在、少しずつ復旧されてきているようですが、まだまだ被災地では多くの方々が避難所での生活を余儀なくされています。一日も早く復興され、普段の生活に戻れる事をお祈りいたします。
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土屋タカ(看護師)
 震災前夜(52回定期大会開催中)長岡中央病院の樋口さんと、ホテルの11階から、外を見ながら災害拠点病院としての備えについて話題になり、彼女の責任感の強い姿勢に感心したばかりだった。当日の夜、彼女の姿をTVで見、更に震災が身近になった。10月27日に業務支援で、魚沼病院に着くと、三条・豊栄・刈羽・村上病院などから多くの方が支援に駆けつけていました。夏の7・13水害の教訓が結実したと感じました。水・電気・ガスの無い病院機能を短時間であったが体験しました。まず患者さんの安全を確保すること、指示に従うこと、騒がず静かに行動すること、声を掛け合うこと、我慢することなどを、魚沼病院の現状から学びました。
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手塚宗昭(臨床検査技師)
 妻の実家で、ニュース速報で震源が中越と報じており、娘一人小千谷の自宅に残してきており連絡するも携帯も使用不能、慌ただしく帰路につく。高速は不通で国道を走り見附大橋で迂回し、これよりは道路はうねり電信柱が斜めになる中ひたすら走る。途中、姪のメール経由で娘の無事が確認され胸を撫でおろすも市内にはいると一段と被害が増し倒壊家屋や車の横転現場をすり抜けて六時間弱を要し自宅に到着。娘の安全を確認すると妻は魚沼病院へ、私は両親を迎えに行った後、検査室へ。その惨状たるや目を覆うばかりでしたが、感染防止措置、水漏れや機器の応急措置をとり緊急検査が実施できることを確認し被災初日を終える。
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田中栄次郎(診療放射線技師)
 その時、私は出刃包丁を持ちブリの頭の料理をしていました。突然天井に突き上げられるような激しい衝撃とすぐ真っ暗になる中、女房と母の居る玄関の方へ泳ぐ様に辺りにぶつかりながら行きました。

 次の大揺れが収まるまで外に避難しようか迷いながら、家を出て車に母を避難させ、道路上に成り行きを見ながら次々に襲って来る余震に脅えながら近所の人々と肩を寄せ合い1時間位様子を見て、女房の勤務先の小千谷総合病院へ亀裂と崩壊の道を急ぎました。そこは正に野戦病院と思われるほどひどいものでした。

 すぐに私は、魚沼病院に向かい、混乱の中、齋藤病院長指揮の一員に加わりました
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一病棟 鈴木カネ
 私は災害後8日位に、ボランティアに入りました。もう8日も経っていたのですが、患者様の食事は、缶ジュース(野菜)、野菜の煮物、パック使用のごはんと粗食のように見えました。水道が復旧したばかりで、仕方ないと思いました。スタッフとの会話の中で、魚沼病院の看護師長が中条病院で指揮をとっていた等の話を聞く事が出来ました。当院でも大災害がおきた時どうすればよいかと、スタッフから不安の声があります。又、系列病院としての任務を考えなければならないと考えます。
     三病棟 宮阪美奈子
 テレビ画面でしか見たことのない被災地に初めて行き、本当に大変なことになってしまった、皆さんが不安な思いに、また不自由な生活を強いられている姿をまざまざと知らされました。他県ナンバーの車が被災地へ向かっており、人の温かさを感じました。
 災害はいつやってくるか分かりません。組織の指揮命令系統をしっかり見直し、全職員に周知徹底するべきだと思いました。また各勤務帯での自分の役割を再確認すべきでしょう。

 魚沼病院の患者様の手首にネームバンドを見ました。長期の休みの後、夜勤に入ることもあり、顔と名前が一致しないこともあります。誰が避難できたか、できていないか把握するには良い方法だと思いました。
     手術室 伊井紀子
 魚沼病院で実際に震度五を体験しました。揺れがおさまってから、各病院を見回ったりして被害の有無を確かめ合いました。また入院患者様や御家族の方に声を掛けたりしました。いつ地震が起こるか分からないので、マニュアルで確かめ合うだけでは足りないと思いました。防災訓練として院内で訓練することも必要なのかと感じました。
     手術室 中村アサ子
 ボランティアに参加した日が震災から一週間過ぎたときでしたが、外来待合室で生活している車椅子の方がいらっしゃいました。小児科の外来看護師は業務をしながら、その方への声掛けを細かく行っていることに感心しました。

 また小児科医師が24時間診療の合間に避難所まわりをしている姿に感動しました。
     透析室 佐藤千恵子
 ヒビ割れた高速道路を走り現場に入り地震の大きさに驚きました。そんな中魚沼病院の皆さんは家族の事を心配しつつ、患者様の為に一生懸命頑張っていました。ボランティアの私達にも気づかってくれる姿を見て、微力ながら皆んなで力を合わせ応援していきたいと思いました。
    放射線科 後藤英夫
 私は、地震発生から三日目に魚沼病院に支援活動に行って来ました。
 病院の内部や放射線科は、物が落ちていたり、何より電気が復旧していないこともあり、X線撮影ができない状態でした。

 後かたづけと掃除ぐらいしかできず、ほとんど皆様の力になる事はできませんでしたが少しでも早い復興を願っております。
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