希望を抱き続けて
中条第二病院(看護師) 樋口誠一

 10月23日私は職場にいました。突然の揺れ、ドーン、グラグラという地震が始まり、最初はいつもより大きい地震が来たかなと思っていましたが揺れがおさまらない。二回目の地震でふと後ろを振り返ると、詰め所の柱に大きな亀裂が走っていました。これはもう尋常ではない、建物自体がもしかしたら崩れるかもしれないと、まず患者を「落ち着いて、大丈夫だから」とホールのほうに誘導しました。解放病棟はそれほど誘導に時間がかかりませんでした。

 二階の認知症病棟の患者の半数は車椅子、寝たきりが多く、懐中電灯を持ちながら職員が避難にあたっていました。道路状況も悪く、家から駆けつける職員もそう多くはありませんでした。そんななかで地域の消防団の方がかなり大勢きてくれました。エレベーターが使えないので車椅子ごと抱えて階段を降ろすという状況でした。消防の人達は、「家がこんなになっているのにどこに行くんだ」とお母ちゃんに怒られながら病院に来たとあとで聞きました。

 おかげさまで、患者150人全員怪我なく老健「きたはら」のほうに避難することができました。きたはらでは、中条第二病院の150人、中条病院の90人、老健におられた100人の約340名が一晩そのなかに避難していました。横になるスペースもなく、解放病棟の患者の半数くらいが布団一枚に3〜4人入って、炬燵状態でした。いつまた大きいのがくるかわかりませんでしたし、自分で歩けない方は、眠剤を飲んでもらって早く休んでもらいましたが、自分で動ける人は、逃げなければなりませんので、ほんの仮眠程度でした。揺れも続くなか一晩寝ない方も多かったです。

 翌24日から精神の患者さんの居場所を確保しなければなりません。上越、中越の近い病院に約80名くらい搬送を行いました。25日には、長岡の精神医療センターの体育館を借りて約60名の患者をそこに避難させました。我々が看護に行き、場所と食事の提供を受けました。道路状況が悪かったので、長野まわりで搬送しました。そこで五日間いました。日勤に出発するのが朝の四時とか五時でした。28日には下越の病院へも移送をしまして、合計20カ所の病院に140人の患者をお願いしました。

 患者を送っていくときに、いつも最後に「いつになったら迎えに来てくれるの、何時になったら病院は直るの」と聞かれ、後ろ髪引かれましたけれど、「まだちょっとわからないんだけれど、なるべくはやく直してみんなを戻したい」ということ位しか言えませんでした。
 県内にばらばらになった患者とその家族。精神の家族はほとんどが高齢な親です。病院に患者の荷物を取りに来た家族の方は、「なんとかしてもらわないとあんな遠いところまで行けない、新潟の先の病院までどうやっていけばいいのかわからない」と、口々に言われました。患者からもしょっちゅう電話がきます。自分の荷物はどうなったのか、早く帰りたいと頻回にあります。

 一日も早く患者が戻ってこれるようにしたいと思います。
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