あの日、中越地域をおそった激震は、閉院せざるを得ない被害を受けた中条第二病院を始め、中越地域にある新潟県厚生連の6病院に甚大な被害をもたらしました。病院職員の被災も、家族を亡くされた方や怪我をした人、全壊家屋24件、半壊85件、一部損壊は約500件となり、経験したことのない事態に直面しました。
震災翌日、直ちに労使合同対策本部を立ち上げました。非常災害時に労使合同対策本部を設置する目的は、「病院の診療機能の維持と職員の生活支援」です。
震災直後から無線で中条病院、長岡中央綜合病院の被害状況が伝えられてきました。不眠不休の被災地病院へ一刻も早い救援体制を取ることが必要でした。対策本部では、震災被害のなかった病院に対して、救援体制をとるよう要請しました。これに応えて全ての病院ですぐに救援活動がはじまりました。寸断された道路をぬって、刈羽郡病院の救援隊が魚沼病院に到着したのは二十四日のお昼過ぎでした。以後、次々に救援体制がとられ、この活動は、魚沼病院が通常診療を再開したのちの11月8日まで続きました。
患者の移送を余儀なくされた病院では、厚生連間の連携で、その安全を確保しました。新潟厚生連15病院のスケールメリットを最大限生かして対応してきました。
「朝、目が覚めたら職場がなくなっているなんて。こんなことが現実に起きるなんて、まるで自分がドラマのなかにいるみたいで信じられない。この先どうなるんでしょうね」不安でくぐもった声が電話をとおして聞こえてきました。地震から38時間あまり、壊滅的被害を受けた中条第二病院の組合員からの電話です。
救援活動はようやく緒についたばかりであり、職員の安否や被災状況の確認も充分とは言えないなか、病院の復興・再建の課題とも取り組まなければなりませんでした。
診療機能の維持、職員の生活再建、病院の復興・再建とすべてを同時並行的に進めなければなりませんでした。
「組合員の雇用を確保すること」と「地域医療を守ること」は、厚生連労組の基本的命題です。中越大震災によって、二つの基本命題を同時に突きつけられ、厚生連労組の総力をあげての運動が要求されました。
復興への足掛かりとして取り組んだのは、国の災害復旧費補助率のかさ上げ(公的病院1/2、精神は1/3を公立病院と同様に2/3とすること)でした。これは、要望どおりのかさ上げが実現し、今後の非常災害時の補助率の基準とすることになりました。復興への大きな一歩でした。
行動力、政策力、団結力、交渉力と総合的な力量を要する活動を推進するには、4.000人の組合員が気持ちをひとつにすることが必要でした。情報を知らせ共有すること、そのために迅速な速報体制をとりました。「負けない、あきらめない、くじけない、助け合って復興!」を合言葉に歩んできました。
病院というところは、地域に非常災害がおきた時、公共的役割を強く求められます。病院に求められる社会的役割に、私たちは応えきれたのだろうか。あの時病院におきたこと、私たちが体験したことを不充分さも含めて語ろう、検証しよう、それが地域医療を守り続けることになるのだと…記録集編集の動機です。 |