平成3年5月、友人と毎年恒例の山菜取りに山に入った時、腰から足にかけて尋常でない痛みで動けなくなった。

 その前年あたりから時々、腰や足の痛みが出ていて、近くの病院では「坐骨神経痛」と言われていた。

 しかし、この痺れる激痛には、ただ事ではないと気付く。あれこれ検査が進められ、MRI検査を添えて、大学病院に紹介され、その年の10月に右股関節、年が明けて1月に左股関節の手術を受けた。壊死した骨頭を削り落し、腰骨から骨を一部切り出して骨頭に移植するという手術だ。

 3月から六日町のリハビリ病院に転院した。プール設備があり、水の量を調整することで荷重を少しずつ増やしていくことができる。大学病院からの入院は1年4カ月に及んだ。

 退院して松葉杖が取れると同時に、会社に復職。もう1年くらいは休職したかったが、それができない時期であった。

 当時は栃尾市に住んでおり、3人の娘は社会人一年生、高三、中三。お金がかかる時期だった。私の母が健在だったので、女房は二交代勤務をしながら家計を支え、目の回る忙しさであったと思う。無我夢中で病気と生活とに夫婦で闘ってきた。友人たちからの精神的支えは、闘う気力をくれた。

 移植手術後、本当に足が楽になったと思えたのは実質1年くらいであった。常に痛みを感じながら過ごしていたが、痛み止めの座薬も効かなくなった平成13年に左の股関節を、平成17年に右の股関節を人工関節にする手術をした。関節可動域の制限が出てくる手術だが、私は座椅子に座れるくらいまでになった。

 大学病院での経験は、命を揺さぶられる場面を何度も目にした。骨髄腫や難病を宣告されて、生きるか死ぬかの狭間の中で闘っている。大人とか子どもとかの違いはなかった。生死の境を巡った人は、厳しい瞳で耐えている。

 大学病院には定期的に診察に行くが、印象深いことがあった。当時私の骨移植のチームを率いてくれた先生が「もっと早く人工関節にすればよかったかなー」と言われた。私は「痛みで辛かったことはありましたが、恨んではいません。先生は、私の可能性にかけて移植をしてくれたのです。おかげで復職して生活を守ることができ、今日まで来ました。感謝しております」と。「そう言ってもらえるとなー」と先生。

 先生の率直な気持ちを初めて聞き、気持ちのやり取りは、ストンと胸に収まった爽快感があった。