今、私はがんの痛みが出ないように麻薬の痛み止めを服用している。東京のせがれがもう少しで定年になり、栃尾に帰って来る。せがれに教えておくことがあるから、それまでは頑張るのさ。 |
|
|
人生に悔いなく精一杯生きてきた。母親は、私が七歳の時亡くなった。下に小さな妹がいた。私の上には兄が三人いたが、三人とも外国で戦争の犠牲になった。頼みとする息子たちを亡くした父親は、本当に憔悴していた。私は十四歳で新制中学になっていたが、食べるために学校に行けなかった。百姓仕事をすべて切り盛りしなければならなかった。苦しかった。 |
|
|
そして、私は自分に誓ったのさ。「勉強は二宮金次郎になろう」と。漢字を毎日書くために日記帳に一ページ書く。その時必ず辞書を引いて書くようにした。
英語も勉強した。兄たちが亡くなった地に行こうと決めたからだ。米国、カナダ、シンガポール、中国、韓国、台湾、もちろんガダルカナルも。一人旅が好きだ。結構友達ができ、文通もした。
土建会社を定年退職して、第三の人生は栃尾郷病院に夜間事務のアルバイトをしながら、自力での別荘作りに励むことから始まった。別荘とは名ばかりだが、住むには水が要る。ならばと井戸を掘り始めた。掘り始めは知人に重機を頼んで掘ってもらった。六bばかり掘ったところで、梯子をかけようとして頭から落ちてしまった。肋骨三本折り、腰椎骨折、全身打撲で一カ月入院した。 |
|
|
けがはしても、持病なくがむしゃらに働いてきた平成二十年春。お尻のあたりが痛く痺れる様になり、病院に行くと、前立腺がんですでに骨転移しており、ステージX、末期がんの宣告だった。
東京のせがれはいろいろ調べて、がん治療に有名な医者にもかかった。その先生に「もう少し生かしてもらえないか」と聞いたら、先生は「人間は生き続ける人は一人もいない。どこの病院に行っても治療は同じ」と言われた。その言葉で覚悟ができた。
その後、抗がん剤の化学療法、手術、放射線照射もした。抗がん剤の点滴は体に合わず、吐き気や脱毛など難儀なものだ。治療を止めて痛み止めのモルヒネを服用に切り替えて半年になる。
限りある命だ。今の一日一日を懸命に生きようと思っている。
|
|
|