私は、2004年高校教員生活終了後、三条総合病院の主治医から三年後には、人工透析が必要になると言われ唖然とした。なぜ、透析なのか原因がわからなかった。人間ドックでは、いつも蛋白尿が出ているだけで、たいしたことはないと言われ続けてきていたのに。今思うと原因は、七歳の時の腎不全を引きずり慢性化していったことだった。透析に入るまでのあと三年を有意義に過ごすにはどうしたらよいかと考えた末、何度も行ったことのあるネパールに住むことにした。
首都カトマンズでの生活は、ちょうど民主化運動の最中で、デモやストライキが多発していた時期と重なっていたが、民主化運動の頂点での国王の退位と暫定憲法の制定という歴史に立ち会えた。寺小屋みたいな日本語学校で日本語教師をしながら、ドライブとゴルフを楽しんだ。ゴルフは、日本人会のクラブに属し、多方面の人々と交流ができ、三浦雄一郎さんとゴルフができたことは幸いだった。
薬をもらうためと診療を受けるため、一年に一度帰国して診察を受けるという生活を続けていた。また、途中から、カトマンズで腎臓の専門病院を見つけることができ、現地で管理ができるようになった。幸いにもなぜかわからないが、透析導入が3年から4年に延びた時、主治医は、カトマンズはそんなに良いところかと言われたが、開発途上国なので、環境はいいとは言い難い。しかし、食事については、私なりに十分留意して三食日本食を自炊した。
2008年3月初め透析の指標となるクレアチニンが上昇し、日本で透析するかネパールでするかの選択にせまられ、保険制度もないネパールより日本を選んだ。同年4月透析導入の準備のため一カ月の入院後、週3回一日4時間の透析生活が始まった。
同年6月に2週間、ネパールへ学校関係の仕事で行った。透析は現地病院で、週3回一日4時間の日本と同じ透析を受けた。以後年二回、カトマンズに行き透析を受けながら仕事をしている。もう六回も行っているので、看護師やドクターとも親しくなった。
透析を始めて3年になる今、指示体重を守り、食生活に注意を払っている。あとは体力低下防止に、ゴルフをなるべく多くして維持に努めている。不安要素は、あと10年経つと80歳になる。一人暮らしがどうなるか、通院ができるかどうかとか問題だが、深く考えないことにした。今後は透析をしながらネパールでの仕事をできる限りやっていきたいと思う。
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