「光陰矢の如し」とは申せ、妻が逝ってはや3とせ、3回忌を迎えなければならない時、私の不徳で大けがをしてしまい、今年の3月満3年、一年遅れの三回忌をおくらせて頂きました。妻の最期を糸魚川総合病院で養生させなければならない状況となり、私も帰宅しない21日間を介護しながら病床の妻と過ごして参りました。

 今にして考えると辛いことも多々ありましたが、これが一生の間、一番夫婦らしい充実した至福の時だったかも知れません。

 至福といえば、湯棺の前にエンゼルメークをして頂き、それはきれいでした。妻に「今、お前にとって人生最高の至福の時だよな」と言ったものでした。

 生前妻は乗り物酔いがひどく、どこへも連れて行ってやることができず、この病院での21日間は「ホテルに泊まっている気分でおくろうか…」と語ったものです。

 日ごろ望んでいた東山魁夷美術館と兼六園、それに幼きころに父と遊んだ浜辺で見た夕日を見せることが、妻との約束でしたが、果たせず悔しく心残りでした。しかし、さだまさしさんが歌う「亭主関白」とは逆な歌詞になりますが、「お前よりあとに逝く」という約束だけは守りました。

 いよいよ死期が近かづき幽冥境にあるとき、病室で妻の好きだった「赤とんぼ」の歌を声が聞き取れないほどのかすかな声でしたが、妻と一緒に歌いました。

 最後の「お里〜の便り〜も絶え果〜て〜た」の「絶え果…」の三文字が気のせいか、かすかに聞こえ、これが最後の別れの言葉となり、まさに「いのちの絶え果て」になりました。

 永六輔さんは「最愛の人との別れの最初は悲しく、それが淋しさに変わりやがて、空しさに変わる」といっておられますが、私も今その流れに添っているような心境です。

 五年余り自宅療養で過ごしてきましたが、それもかなわなくなり、糸魚川総合病院でご厄介になり、その直前に死期を感じたのか、妻が私に「長い間ありがとうございました」と介護の労を謝し「本当に私は幸せでした」と言ってくれました。その言葉が、ある大きい病院の看護部長の言われた「私は幸せだったと去り逝く人が伝えること、それが残される人にとって最高のプレゼントです」という言葉と重なり想い出として、今もって心に深く染みております。

 そして今は、妻の分と自分の二人分精一杯生きていかなければならないと思っております。