平成6年、52歳の時。うら盆は過ぎたとはいえ、まだ暑い盛りの8月21日の夕方でした。

 この日は、忙しくて休みも満足に取れない日が続いた中での、久々の休日でした。家でのんびりとレコードを聴きながらくつろいでいた時、だんだん意識が遠くなり、必死に自分の体調の異常を家族に知らせようと、なんとか立ち上がろうともがいたところまでは記憶がありましたが、そこまででした。いすからずり落ちて床にブザマに転がっていた私を最初に見つけたのは、愛犬の散歩から帰った家内でした。

救急車で運ばれた刈羽郡総合病院で、診断は「重い脳内出血」でした。2日後に気が付いた時には左半身の自由を全く失っていました。

 病院では随分泣きました。夜になると病室を抜け出し車いすに乗って、誰もいない静まりかえった一階の外来受付の辺りで、遠くの道路を走る車のヘッドライトの光を見ながら、声を殺してただひたすらに泣きました。自由を失った手足が恨めしく、悔しかった。

 それからリハビリに専念する毎日が続き、3カ月後に退院する時は、もう季節は初冬、木枯らしの吹く寒い日でした。退院時の状況は、太ももまでの装具と4本足のつえで何とか20bほど移動できるまでになっていました。さらに翌年、暖かくなるのを待って長野県の鹿教湯温泉病院へリハビリ入院し、3カ月後に退院したのは発症から一年目となるカンカン照りの暑い日でした。

 当然ながら当時勤めていた会社も辞めざるを得ず、自宅に帰ってからもしばらくは、ただただ自分の悲運を思い、ポキッと折れそうな自分自身の心と戦う毎日でした。

 「もう一度挑戦してみよう」と気持ちの整理ができたのは、発症後二年が過ぎたころでした。「新しく会社を立ち上げて、もう一度社会に向かって頑張ってみたい」と、相談した多くの友人からの答えは、「病気で倒れてから商売を始めるなんて聞いたことがない、無謀な!」と言われながらのスタートでした。しかし、新設した設備会社も既に12年が過ぎ、何とか持ちこたえています。

 現在、柏崎は一昨年の中越沖地震からの復興が最盛期で、日曜も祝日も休めない忙しさです。この混乱状態が一段落したら、後を引き継いでくれた息子と代表者を代わろうと考えています。

 思えば、今の私があるのは、創業にあたって、口では「バカな!」「無茶な!」といろいろ言いながらも、そっと背中を押してくださった大勢の皆さんと、支えてくれた家族のお陰と、心から感謝している今日です。