|
「私、こわい(苦しい)から入院する」とかすれた声で娘(聖子)は訴える―。具合の悪くなった時の翌朝の言葉。入院すると楽になることを娘は理解しているからです。
|
|
現在小学校四年生の娘は出生時、胎児水腫の中でも原因不明のグループに分類され、生存率数%という症例の少ない特殊な状態でした。そのため、出産を控えた私はNICU(新生児集中治療室)のある富山医科薬科大学(現・富山大学)病院に転院し、娘は帝王切開で生まれてきました。二九週前なのに、水ぶくれの為、3700gもありました。
医師からは、出産後2週間くらいは毎日が「ヤマ」と言われました。
|
|
何人もの先生や看護師さん多大な努力と、本人の「生きる」という意志が強かったことで、逆境を乗り越え、人間らしい姿に戻ったのは出生後2ヶ月ほどたった頃でした。そのときの体重は約1800gと、片手に乗る大きさしかありませんでした。そして、これが28週の未熟児として産まれた我が子の本来の姿でした。
NICUにいた約5ヶ月間、治療中は毎週冷凍した母乳を持って病院のある富山に通いました。日増しに大きくなる我が子に面会し、触れることが楽しみでした。
その後、糸魚川総合病院に六ヶ月ほど入院。その間に治療補助の方法を教えていただき、ようやく退院の運びとなったとき、非常に嬉しかったことを覚えています。同時に呼吸器に障害があり、酸素ボンベで呼吸補助を行っていた為、同じくらいの不安があったことも事実です。酸素ボンベは2歳を過ぎる頃までつけていました。
そんな我が子を何か違うものを見るような冷たい視線に腹が立ちましたが、それ以上に周りの人達の優しさや温かさ、心遣いを実感し、嬉しく思いました。
|
|
原因が不明の為、幼児期には呼吸器はもとより、色々なところにその都度違う症状が現れ、医者泣かせの患者でした。もっとも、本人が一番つらいのですが―。
小学校に入学する頃までは、病室が自宅と勘違いするほどで、毎月20日間くらいの入院は当たり前、娘は会う看護師さんたちに「ただいま」と言うことも度々ありました。
色々な治療法を手探りで挑戦し、期待と悲しみ、笑いの入り混じる闘病時期もありました。入院期間は短くなりました。今でも続いています。
|
|
また、この子には四つ上のお姉ちゃんがいます。この子が産まれたときは四歳。まだ親の側を離れられない年でしたが、幼いながら妹を気遣ってか、文句やわがままを言わずに2年弱もの間、祖母の元で離れた生活をしていました。今では素直で優しい真っ直ぐな子に育ったことを感謝しています。
|
|
私たち家族はこの子のおかげで、命の大切さを知り、家族の強い絆がうまれたことと確信しております。
最後に、ご尽力いただいた先生方や看護師さんには非常に感謝をしております。本当にありがとうございました。
|
|