あの頃は無我夢中でした。今考えても、どうやって暮らしてきたんだろうと、不思議に思う。
夫、洲男がバイク事故で脊髄損傷になったのは昭和五十年十月。当時三人の子供は小学五年の長男、一年の次男、保育園年長の長女。子供たちを舅姑に任せて、入院先の日赤に付添い続けました。
農家だから米や野菜はあっても、現金収入は夫の入院で途絶えました。秋の収穫で少しばかりのお金が入るくらいです。入院費の工面など実家や親戚も本当に親身になって助けてくれました。
夫のそばにいて一番苦しかったのは、現状を受け入れる時まででした。夫は「絶対歩いて退院できるんだ」と思っていました。ところが六人部屋に移って、同じ病気の先輩に当たる人が「お前は一生歩けない」と宣言したわけです。夫も私もショックでした。ナニクソと松葉杖歩行まで頑張りましたが、手の力がないため、生活するのは無理でした。二年半の病院生活にピリオドを打ち、家に帰って来ました。
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家での生活は、主婦・農業・介護とめまぐるしい日々でした。頑張れたのは、やはり子供たちがいたからです。よく手伝ってくれました。子育ては、この環境が自然と心優しい子に育ててくれたのだと思います。
三十七歳で歩くことが出来なくなった夫は、やりたいこと、やらなければならないことがいっぱいあった年代でした。子供の入学式を見ては泣き、卒業式といっては泣き、その気持ちは、痛いほど解ります。夫婦で手を取り合って二人で泣けることが良かったのです。
周りは健常者ばかり。車椅子も五台目で電動になり、一人で動かせるようになりました。それからは時には、農協の支所へ子供の替わりに用を足しに行くこともありました。
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月曜日はデイサービス、木曜・土曜は家でお風呂に入れています。デイサービスで夫のベッドが空になると、少しさびしい気持ちがして、さて、今日は何をしようかと考える。夫がいればめまぐるしく一日が動くのに。
寡黙であまり喋らない夫が先日、「おまえのおかげで、生かして貰える、感謝している」なんて言うので、お迎えが近いんじゃないかとドキドキしました。(笑)
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